1994年9月、収穫期をむかえたフランスの無名産地(当時は)ラングドック地方の畑に一人の若造が降り立ちました。
家には小さな二人の子供を夫に預け、子供と別れる時は涙が出るほど心配だったのに、その畑を見た時に、
「来てよかった。そして、何かが大きく変わる。」
そんな確信に足が震えました。
「蔵直(R)ワイン」とは、ヴィノスやまざきが造った造語。
エージェントなどを通さず、直接自分達で蔵元から輸入したワイン(日本酒も)を、こう呼んでいます。
産地やブランドに拘らず、素晴らしいワインを造っている生産者から、小売店が直接ワインを輸入する、というのは、30年前大変珍しいビジネスモデルでした。
しかし、私は蔵直を、ビジネスの為に始めたわけではないのです。
ヴィノスやまざきの前身は山崎酒店、1913年に祖父の山崎豊作が行商で創業した小さな酒屋。
そして二代目の山崎巽が、静岡の無名な地酒を世に送り出し、磯自慢、開運、喜久酔等の酒を全国区に引き上げたのです。
しかし、日本酒の世界は当時は男性中心の世界。
同じように酒屋も男の跡継ぎがいなければ、娘に婿を取り継がせるしかなかった時代です。
巽は、「娘の幸せが一番」と、娘たちを嫁がせ、酒屋を廃業する決意をしました。
そんな時、安定したサラリーマンと結婚して普通の専業主婦をしていた私(長女 祐子)が、店の片隅にあるワインを見つけ「これを売らせてほしい」と、ワインの販売の手伝いを始めたのです。
妹の敦子とともに、ワインを広めるワイン会を企画して、「1人1人の好みが違うワインだからこそ、女性にむいている仕事かもしれない。」と、店の一部を借りてワインの商売を始めました。
全くワインのことはわからない。
さらにアルコールにからきし弱い、業界の商流も知らない、そんなとてもワインビジネスには向かないと思っていた自分が、どんどんワインの売り上げを伸ばしていったのです。
それは、「わからないから、お客様に教えて頂く」ので、自分の好みではなく、お客様の好みに真摯に耳を傾け販売していたからだと思うのです。
そんな中、あるお客様から
「ソムリエの資格ないんでしょ。」
と、厳しいお言葉をかけられ、東京にできたばかりのワインスクールに通い、必死になってソムリエ協会の資格を取得しました。
そして、ワインスクールのブラインドティスティングコンテストでも優勝、さまざまな国のコンテストで授賞し、店の中には、どんどん「有名ワイン」が増えていったのです。
静岡県で初めての女性ソムリエ?と有名にもなってきたのに、売り上げはどんどん落ちていく…
悩んで悩んで、小売りの勉強をしていた時に出会った言葉は、
「店はお客様のためにある」。
自分達の売り上げや、これを売りたいという想いではなく、ひたすらお客様のための品揃え、店作りをしなくては、と思いました。
入りにくいワインセラーは壊し、店内全体を空調をきかせ24時間ワインセラー状態にし、全てのワインには自分がなぜおすすめするのか、どんな味なのか、大きなPOPを作り、難しい産地名ではなく味別に棚を変え・・・
すると売り上げはまた、上向いてきたのです。
そんな時にあるお客様から言われたのが、
「祐子ちゃん、美味しいワインは皆5000円以上して、安いワインはあまり美味しくない。
本当に美味しいワインを1000円代で売ってくれたら、毎日買いにくるよ。」という、言葉。
当時、バブル崩壊直後で、メーカーは高級有名ブランドワインか、500円というようなブレンドした安ワインしかありませんでした。
何とか、お客様の要望に応えたい。
んな時出会ったのが、当時のワインスクールでは「安酒の産地」と言われたラングドック地方のワイン。
フランス大使館の方のご紹介でした。
白のシャルドネは、まるでブルゴーニュのようなのに1000円位、そして赤はまるでボルドーの高級ワインのようでありながら、こちらも1000円代。
なぜ?これは、行って、この目で見てくるしかない!
二人の子供を、実家と夫と妹にお願いし、生まれて初めてフランスに行きました。
ラングドックは当時、「安酒の産地」と言われるよう、たくさんのトラクターが機械で収穫をしていました。
が、私が「美味しい」と、感動した、コルビエール村のシャトー・レゾリュー、ミネルボア村のドメーヌ・グールガゾーは、小さな小さな蔵元でしたが、有名産地の有名シャトーに負けない位の丁寧な手作業の収穫や、こだわった樽の使い方、そして、何と言っても彼らの情熱。
今まで、自分がやってきたワインビジネスは何だったんだろうか。
ワインは格付けでもなく、産地ブランドでもなく、農業なんだ。造る人なんだ。
葡萄畑を見守る十字架を見ながら、涙が出てきました。
お客様の期待に応えられるワインに出会わせてくれたのは、もう、縁というか、神様の技というか、天国のおじいちゃんなのか、商売の神様なのか、わかりませんが、私は、こういったワインをお客様にお届けするために生まれてきたのかもしれない、と、思える程、感動と、そしてこれからむかっていく大きなプロジェクトに涙と武者震いが一緒になった運命の1994年9月でした。
日本に帰ってきて、さっそく低温倉庫を探し、1コンテナを輸入。
しかし、届いたのは、「前払い」の請求書。
実績もない私に、最初は前金と、コンテナの費用の請求が来たのです。
それまで、問屋経由で仕入れていたので、仕入れの一か月後に支払えばよかったので、これは思いもよらぬ試練でした。
1000万のキャッシュが足りません。
家族全員にお願いしても1000万のお金は集まらず、あきらめるしかない状況でした。
でも、絶対に「動機善なり」なら、何とかなる。地元で最年少の支店長のいる銀行を訪ね、取引も貯金もないけれど、無担保で私に1000万円貸してほしい。と、突然お願いしたのです。
「いいよ。その代わり6か月で返すこと。それが条件」
と、その場で融資の決裁をして頂き、ワインは無事に届きました。
1万本近くのワイン。
輸送に2か月かかってしまい、業務用に売ることも考えると3か月で1万本を売らなくてはならない。
でも、その心配は1か月で解決しました。
飲んで下さったお客様が、ケースでご注文下さり、また口コミで広めて頂き、あっという間に1万本のワインが売り切れてしまったのです。
さらに、嬉しかったのは、購入して下さったレストランのオーナーの方が、
「ありがとう。本当に美味しくて、お客様が喜んでくれたよ。」
と、小さな花束を持って訪ねてきてくれたのです。
もう、それまでの苦労がどこかに飛んでしまい、涙が止まりませんでした。
それから、蔵元さんたちの紹介で、産地を超え、美味しいワインの品揃えが増えていきました。
「ワインは産地ではない。造る人だ。」
そんな想いに共鳴してくれ、会社となり、集まってきてくれた社員の皆さんが、南米やアフリカや新大陸から、素晴らしいワインが集まる会社となりました。
この30年の間には、蔵元に裏切られたこともあります。
苦労もたくさんありました。
それでも、災害やコロナ、戦争の影響、さまざまな困難を乗り越えてここまでこれたのは、そんな私達が選んだ無名のワインを信じて、手に取って下さったお客様お一人お一人のおかげです。
本気で、お一人お一人に感謝の言葉を直接お伝えしたいです。
蔵直ワイン30周年に寄せて
皆様に心からの感謝を
ワインを通じて、世界が一つになれる日を願って
2024年9月
ヴィノスやまざきファウンダー
種本祐子